昭和四十五年五月三十一日 朝の御理解
御理解第四十九節 「信心は相縁機縁。」
正しくこの相縁機縁を感じます。不思議な縁に結ばれて信心を頂くようになり、おかげを受けるようになり、生活の全般が信心を頂く事によって変わる。もし信心を頂いてなかったら、もしあちらの教会に御縁が頂けてなかったら、もしあの先生と会合する機会を得てなかったら、自分の運命はどのように変わっていっておったであろうかというように思われる事が多いのです。それも不思議な縁によって結ばれる訳でございますが、せっかく縁が縁として出来たのですから、それが只今申しますように、その縁を境に自分の生活が誠に有り難いと思わして頂ける縁に育っていかなければならない。「縁は異なもの味なもの」と只、縁が異なものにすぎずに、いわゆる味なものに変わっていかねばならん。そこに私は信心が「信心は相縁機縁」。
今日、私、御神前に出らして頂きまして、今日は久留米地区の各教会の楽人さん達のそれも正式に典楽会に入会しておる方達の総会又は慰安会と云ったようなものをここの教会でもちたいからと御相談を受けとりましたから、それを承諾しておりましたから、今日ここで楽人さん達が集まる。今日の午前中から夕方までゆっくりここで過ごされるらしいんです。いくらいくらの会費で。まぁそういう風な事で、おごちそうの方は教会にお任せするといったような事なんですけど。せっかく来て頂くのですから、それが意義のあるものにならなきゃならんと思うていろいろ心を使わせて頂いとるような訳です。その事を私、せっかくその楽人さん方が集まっておかげを頂くのですから、その事がおかげになるようにお願いさせて頂いておりましたら、御心眼にね、今頃はもう薬が消毒薬なんかができたから<悩みでないでしょうけど>どうでしょう麦の中に黒い麦ができるでしょ、あれは今でもできますか?あれはやっぱ黒穂病と云うんでしょう、あの黒穂病がね、点々として麦の中にあるのを御心眼に頂くのです。そして今日、この御典を聞かせて頂いたら四十九節を頂くのです。四十九節は、これは読み方を変えると始終九節という事になりますね。四十九という事は、始終、いつも苦労をしておるという事。これは既してですねぇ、楽人さん達には非常に苦労する人が多いんですねぇ、昔から、いうならあんまりおかげを頂けないタイプの人が多いのです。それはどういうような事だろうか。そんな事と私、結び合わせて考えたんです。いわゆる楽人(がくにん)さんが楽人(らくにん)さんになるところから、おかげを受けられんといったような感じも致しますねぇ。又、楽人は信者と先生との中間の取り扱いを受けるんですねぇ、教会では。ですから他の信者とはちった違うといったような、信心は出来ずにそういうような考え方があるところに、おかげが受けられないような元が出来ていくのかもしれません。今日、集まっておられる楽人さん方は、まぁ別ですけれどもね。まぁ大体昔からそういう風に楽人さんがおかげを受けられんのは教会内に深く入っていくというか、いわば信心が出来んのに教会の事情とかいろんな事が詳しく分かるだけではね、おかげにならない事が分かりますが、本当にこれは楽人さんだけでなしに、私共全般にわたってですけれども、本当に珍しい程修行が出来ると、いうなら修行という事は苦労の連続、随分一生懸命お参りしござるけれども、苦労が続くと云ったような場合も含めてひとつ考えてみなければいけないと、私、今日思わせてもらった。
例えば楽というのは、神様が一番喜んで下さると云われております。お祭りが始まる、琴とか笙、しちりき、笛太鼓といったような楽のリズムにのって先生方が祭典を仕えられます。何とも云えんやはり気分のいいものです。それと同じようにです、神様もやはり心が和まれるだろう、神様も心喜ばれるだろう、というような気が致します。ですから典楽は神様への御馳走だと昔から云われております。なる程、そういやそうだろうなと思います。さぁところがです、その御馳走に真心もなければ親切もない。例えばその御馳走にいやなものが入っておったり、器が汚れておったりしたらどういう事になるでしょうか。せっかくの御馳走がこれは、例えば私共の前にお膳部が運ばれたと致します。ところがそのお膳部の上には手でなでたら字の書かれるごとごみのしとる。茶碗はかげとる。お煮しめが作ってある、そのお煮しめの中には妙なもんが入っとる。という事になったら美味しかものでも、もう食べたくなくなってくるでしょう。いわゆる妙なもんが入っちゃいけんのですよねぇ。そこでそんなら典楽の方達がです、自分達の御用は神様が喜んで頂く御用だと思うておる。果たして神様が喜んで下さってあるだろうか。本当に神様が喜んで下さる典楽の御用である為にです、いよいよその典楽の御用させて頂く方達が、いよいよ心も清め真心いっぱい、それでも人間生身の事でございますから、どこにお粗末やら御無礼やらがあるやら分かりません。どうぞお粗末、御無礼のところは見直し聞き直しお許しを頂きまして、どうぞお受け下さいましと云ったような内容がです、もしその点が楽を奏ずる中になかったら、それは神様は喜ばれる事は喜ばれずに、受けられるはずのものが受けられないですんでしまうというような事がです、私はそれに響きわたってかえってくるおかげにつながってくるのじゃなかろうかと、こう思う。ですからこれは、典楽の事だけではありません。私共、信心させて頂いて修行させて頂いて、本当に苦労させて頂いておる。本当によう、しっかり参りなさるけれども、あっちはなかなか苦労が続くというような時にです、私は猛反対させてもらわなきゃいけない事があるんじゃなかろうかと、こう思う。せっかくの信心が相縁機縁というようにです、縁が出来ただけではなくて、縁が出来た為にです、おかげが頂けれる。そこで今日は、私はこの「信心は相縁機縁」という事をですね「愛縁奇縁」と。だから信心は愛縁奇縁という事にお互いがなっておるのであろうか。私共が死ぬまでが修行だとおっしゃるのですから、いつもいつもがクロンボーのような苦労をしておる、修行をしておるという事は良い事として、その修行がいよいよ愛縁奇縁になっておるであろうか。愛縁というのは、いよいよ神愛を悟。いわゆる神の愛を、いよいよ分からしてもろうて、そこから日々がです、信心しておかげを受けるのは不思議じゃない、信心しておかげが無いならそれこそ不思議じゃとおっしゃるが、信心して霊験があるのは当たり前とおっしゃるが、とても毎日毎日が不思議で不思議でたまらんという程しのです、私はおかげを頂いての御縁に、いよいよ深くつながっていきよるだろうか。そこんところをひとつ検討していかなければならないと思いますね。クロンボーに終わっちゃつまらんという事です。「こげんして修行しよるけん、いつかおかげ頂くじゃろう」というのがです、黒穂病になっとったんじゃ駄目だという事です。そして自分は自己満足と申しますか、自分は神様に喜んで頂けるような信心をしよる、神様に喜んで頂くような御用させて頂きよるというような事になってはおりはせんだろうか。第一御祈念のマンネリという事が考えられます。皆さんの御祈念がお勤めになっとる。いわゆる御祈念という一時間なら一時間という時間をです、いうならば修行しようと、その修行がいっちょん修行になっとらん。毎日毎日ほんなお勤めになっとる。だから御祈念の時間は眠ってよか時間のごと思うとる。もういよいよいけませんね。そういう御祈念が十年続けておったって、神様には聞こえませんよ、受けては下さいませんよ。どのように例えば体が疲れておりましても、御神前に出たらシャンとするくらいな、私はさらな心で神様には向かうべきだ。御祈念はさせて頂くべきだと思うです。「もう十年信心するけん、どれだけ神様の前で拝んだか分からん」でも例えば修行はしておってもその修行が修行として受けられていないとするなら、これは考えなきゃなりません。御参拝という事においてもしかりです、「もうわたしゃ十年間お日参りを続けておる」というても、なる程この方は「一足も無駄にはさせん」とおおせられます。神様へ向こうてきたら一足でも無駄にはさせんとおっしゃるのは、それは何かの意味において確かに無駄にはなりよらんかもしれんけれども、本当の意味はです、私共の信心がいよいよ愛縁奇縁、愛の縁を深めていく不思議なおかげを頂かして頂けれる、不思議さ、有り難さにです、日々のお礼参拝といったような事になってきてからの「一足でも無駄にはさせん」というもんじゃなかろうかと思う。そういう在り方、内容になっての一足だから、それは無駄にはさせんとおっしゃるのじゃなかろうか。何が何やら、只、いわゆるマンネリ化したところの御参拝、参らにゃ気色の悪かけん参りよるという程度の御参拝、これじゃあ私は無駄になりよりゃせんじゃろうかと思います。工夫しなければいけません。せっかく毎日毎日、いうならば尊い御用させて頂いておる、神様の御用と思うておるその御用がです、果たしてそれがひとつの御用、苦労であり修行である。その苦労がです、本当に苦労に終わってしまうというような事であったら、どういう事になるでしょうか。世の中には苦労のし損という事があります。いわゆる苦労のしがいがあったとか、苦労のしがいがなかったというような事を申しますでしょう、信心の苦労が信心の修行がです、しがいのあるところの修行でなからにゃいかんでしょう。せっかく修行させて頂いたけれどです、その修行が何やらかにやら分からんような眠り半分の修行であったらどうでしょう。私共はせっかく修行させて頂くなら修行しがいのある修行させてもらわにゃいけません。せっかく苦労させてもらうなら、苦労のしがいがあったというような苦労でなからにゃつまらんでしょうが。せっかく例えば典楽の例をとるならです、なる程典楽は神様が喜んで下さる神様への御馳走だというてもです、その御馳走の中に真心もなければ親切もない、ほこりだらけであったり、いうならいやなものがいっぱい付着しておるような御馳走であって神様が喜んで受けて下さるはずがない。そういうような事に陥りがちの、私は御用であったとしたらです、なる程、楽人がおかげ頂かんのはそういうところに元があるのではなかろうかと、これは楽人だけではありません、一同の者がです、信心させて頂く者全部が考えてみなけりゃならん事ではないでしょうか。せっかく信心させて頂いておるのに、せっかく神様が喜んで下さるはずの御用がです、神様が果たして喜んで下さってあるだろうか。喜んで下さってあるはずならです、いよいよ信心は愛縁奇縁に育っていっておならければならないはずだ。そういう、いえば楽人さんで朝参りでもしよります、という人が少ない。もう自分は神様の喜んで下さる御用をしとると思うからじゃないでしょう。そしておかげは受けよるかというと、おかげは受けよらん。いうなら困った人、難儀な人が既して多い。あれ程、教会と密接な関係を持つ楽人さん達が、根性があんまりようなかったり負けん気ばっかり強かったり、只声を美しくして技術だけがよけりゃ、もうそれでよかとのごと思うたり、神様にお喜び頂けるような典楽がお供えしたい、為には楽人そのものがです、本心の玉を研かにゃならない日々を改まらなければならない。日々が信心修行に打ち込ませて頂いてその上にです、その上に典楽がお供えされるなら、なる程、神様が喜んで下さる御馳走だろうなぁと思われる程しのおかげ、それでも人間生身の事であるから、どこにお粗末御無礼があるやら分からん。そこは見直し聞き直し頂いて、お詫びをするような私はその姿勢が大事だと思う。「私は、もう先生」という感じの人が多いという事です。「平の信者じゃない」という感じが強いという事。だからこれは、典楽人だけの事ではないですよ。日参り、夜参りさせて頂いて、いわば「幹部でござい」と云われる程しの人達がです、いわばいつもが始終が苦労であってです、そこに信心の喜びもなからなければ、毎日毎日が不思議でたまらんというようなです、素晴らしいタイミングの中に、日々おかげを頂いていないとするならです、神様のいわゆる神愛の心がです、いよいよ深うつながっていないとするならばです、これは本気でひとつ考えてみなければならない、猛反省しなければならない、という事になる。
今日、私、今日の典楽会の事をお願いさせて頂きよったら、そのクロンボーを頂いた。そして今朝の御理解にこの四十九節を頂いたから、まぁ典楽というものが神様が喜んで下さるもの、そんなら皆さんがいろいろ御用をなさる、神様がお喜び下さるような御用を自分はしておるつもりであるという場合です、つもりじゃいかんという事。本当に神様が喜んで下さってある証拠に愛縁が生まれ奇縁が生まれておるかどうかという事なです。そこんところを確かめていかにゃなりません。
昨日、私、午後から奉仕させて頂いとったら、こんな事を頂いた。
「極楽は 峠を越える 一休み」誰でも極楽を求めない者はありません。楽は好かんという人もありません。けれどもその極楽はね、次のひと峠を越える為の一休みでなからなければいけないという事。信心させて頂いておりましても、それこそ生身を持っておる身ですから、たまにはやはり楽もしたい。「本当にこげな極楽な思いしてよいじゃろうか」というような時にです、その極楽ばかりを求め、そういう楽ばかりを求めるというのではなくて、この極楽によってです、次の飛躍していく事の為のエネルギーがそこに貯えられる、為の極楽でなからねばならんというのです。例えばそんならお風呂に入りますとやはりみんなが極楽極楽という気が致します。確かにお風呂は極楽です。一日の疲れを取り除かれるような気が致します。私共のように立派な設備の行き届いた、ここのお風呂等にでも入らせて頂いておりますとね、本当に思わず知らず「金光様」が唱えられにゃおられません、勿体ない事だと思わにゃおられません。さぁそれがそんなら、そういう極楽だから一時間も二時間も入っとったら、どういう事になりましょう。それこそ私は、湯冷めがするというか、又はかえってのびてしまうというような結果になるのです。極楽というのはね、そのように実はつまらないものなんです。極楽というのは、いわば短時間であって初めて極楽という訳なんです。教祖様は、そこをようおっしゃっておられますよねぇ。「信心は一生が修行じゃ」とおっしゃった。けれども合間合間には、風呂に入って「あぁ極楽」というような事もあるけれども、その極楽は又、翌日の働きの為のエネルギーなのだ、という事なんです。「極楽は 峠を越える 一休み」だ。それを私共は、極楽ばかり求めてるような、そういう気持ちがありはせんだろうか、結構けだらけな生活ばかりをしておるような事はないだろうか、それではおかげになりません。
まあ今日は「信心は相縁機縁」という事でございましたから、私共の信心を振り返ってみて、楽人さんに例をとりましたが、楽人さんだけではありません、お互いが確かに神様に喜んで頂けるような修行もしよる、信心もしよる、御用もさせて頂きよるごたるけれども、それが今日、私が云う愛縁奇縁に育っていってないとするならです、私はここでいっちょね、本気で極楽してみる必要があると思うですねぇ。「もう、信心な止めた」といったようなですねぇ・・・私、修行時代に時々そういう事がありました。やっぱ苦しいんですよね。私共横になって寝らないという修行させて頂いた。絶対横にはならんという修行。御本部参拝させて頂く時でも、もう汽車に腰かけたっちゃ後ろに寄り掛からない。まぁいうなら厳しい修行をさせて頂いておる時分にです、自分の願いがどうしても成就しない事がある。それこそグラグラするごたる事がある。神様も神様だと思う時がある。そういう時には、座敷の真ん中に襖しめてしもうといてからね、大の字になってひっくり返って寝てみるのです。まぁそういう事を皆さんに宣伝してすすめる訳じゃないけれどもね。そして長くなって大の字になって寝る事は、どうした有り難い事じゃろうかと思います。いわゆる極楽を感じる訳です。もう極楽を感じた途端にパーっと飛び上がる元気が生まれてくるですね、修行中は・・・。そして次には「済みません」という済いませんの修行が出来てる訳です。いわゆる極楽は、次の峠を越える為のひとつの工夫なのだ、一休みなのだ。まぁこれは各々でひとつ体験してごらんなさい。自分の信心がマンネリになっておるといったような人達はね、やっぱりそういう稽古をしてみるがいいです。最近、末永さんがもういつも眠っているのですよね。これはひとつのマンネリです。末永さんがごたる修行は出来んと、皆さんが一時云うた事がありましたが、最近はもう昨日なんかでも、ここの修行生の方達の断食しとる人達でも内外の大掃除から一生懸命やってるのですよ。私が部屋部屋に行きゃ部屋に行っとる所で寝とるとです。応接間に入ってみりゃ、もう応接間にちゃぁーんと長うなっとる。私はもうじーっと抜き足差し足で出てきました。ちょっと私が部屋に入ってみると座布団が敷いて「今まで寝ちゃったばいなぁ」という感じなんですよ。だから今云う末永さんは、今日私がいうようなところを通っているのかもしれません。いわゆる自分の信心にマンネリを感じた。そこで次の飛躍をさせて頂く為に、朝でも倒れるように眠りよるのは、末永さんだけでしょうが、最近は。だから私は、御理解をいっとき止めて末永さんの方をじーっと見よる。パッと目が覚めて私が御理解止めて見よるもんじゃからびっくりしよる。これは確かに心に生き生きしたものを欠いでるからなんですよ。ですからそれもいいです、そこでひっくり返って寝てみる事もいいです。けれどもそれはね、極楽は峠を越える為の工夫であり一休みというもんでなからにゃ、それがダラダラっとそういう習慣がついてしもうたら、もうその修行は何にもならん修行になる。いわゆるクロンボーになってしまうです。せっかく何年間というて教会修行させて頂いたのが水の泡になるような事では、相済まん事ですよねぇ、お互いが。
今日このところをですねぇ、いつもが苦労と思われるような修行させて頂いておって、愛縁奇縁が生まれてこないとするなら、私はその為の工夫が必要だと思う。自分だけが自分よがりにです、楽人さん方が楽というのは、神様が一番喜んで下さる神様への御馳走だと、只それだけを思いこんで御用頂いておってもです、それに響き返る程しの、愛縁が奇縁が育っていってないとするならばです、これは本気で清まった人が清まった心で改まりに改まり、研きに研き、詫びに詫びていくような姿勢をもって、いわば神様への御馳走が作られるとするなら、神様が本当に喜んで下さる、そういう喜びがです、おかげに折り返しに返って来なければならないはずです。そのおかげを受けておる人は別です。受けてないとするなら、ここにひとつ本気で考えてみなければならない、というような事を思います。
今日、ここで典楽会がある事について私が頂きました事をね、それを今日の四十九節につないでお話させて頂いたら、今日のような御理解になった訳です。ひとつ本気で信心が確かに愛縁奇縁だなと思います。只しかし相縁機縁と云うておるだけではいけん。それが愛縁奇縁に育っていかなきゃいけん。いわゆる愛の縁、不思議な縁に育っていかなければつまらん。いわば苦労のし損、修行のしがいがない。しがいのある苦労、しがいのある修行に取り組まして頂かにゃならんという事ですね。どうぞ。